荒川ストーリー5 川を利用した荒川のいろいろな第一次産業

 川を利用した荒川のいろいろな第一次産業
1 鉄砲流しと筏流し(秩父山地~東京) 
 秩父山地から切り出されたマツ、カツラ、シオジ(モクセイ科落葉高木)などの木材は、堰(せき)を使った鉄砲流しで水とともに下流まで押し流され、ゆったり流れる河岸段丘流域で筏(いかだ)に組まれて、筏として東京湾まで運ばれた。鉄砲流しは、策動や林道が整備される戦後復興期まで続いた。一方、筏流しは、トラックと鉄道による陸上輸送が発達したため、大正時代の始めにはほとんど使われなくなったが、関東大震災後の復興のために一時復活したのが最期である。

2 船車(寄居町・旧花園町・旧川本町)
 船車(ふなぐるま)は、川舟に水車小屋を載せたもので、小麦粉などを作っていた。荒川の水量の増減に影響されず、大水の時には人が避難できる船車は、川の特徴をよく知る人々の知恵の産物と言える。特に、扇状地域として麦作地帯が広がる寄居町から旧川本町にかけての荒川では盛んに行われ、昭和13年頃までは昼夜無く稼働していた。
 船車は、貴重な製粉工場であると同時に、農家に貸し出すことができる財産でもあった。支払いは、現金のほか出来たての小麦粉のこともあった。人々は刈り取り後の繁忙期は寝泊まりしながら行うこともあった。
 その後、動力製粉機へと移行し、昭和20年始めには船車の姿は消えていった。

3 砂利舟(熊谷市)
 扇状地域では、上流から運ばれた砂れきがたい積し、厚い砂れき層を形成するとともに、各所に中州が存在した。砂利の採取は、明治時代の中頃から昭和50年代の初めまで続けられた。
 県は、県財政の充実と砂利の安定的供給を図る目的で、大正12年から砂利採取事業を始め、昭和45年の廃止まで4,000万m3の砂利を採取した。
 硬くて重い荒川の砂利は、基礎的な建設資材として道路・橋梁・ダム・鉄道等のインフラ整備に重要な役割を果たした。砂利の採取は、川底と水位の低下をもたらし、飲料水や農業用水の取水を困難にした。また、川底の岩盤が見えるまで砂利が減少し、水の浄化能力や動植物の生息環境を悪化させた。



〈 川砂利はいまでは採取できないが山砂利を川そばで洗浄するので川砂利採取と勘違いされます 09.2.23撮影 〉

4 段丘面を利用した棚田(横瀬町) 
 河岸段丘地域では、横瀬町など段丘面の平地やなだらかな傾斜地を利用して、比較的小規模の農地が開墾されている。

5 広い河川敷で営まれる稲作(さいたま市)
 荒川の人工河川域の堤外地は、洪水によって運ばれた堆積物で豊かな土壌を形成しています。米麦などの農産物や桑の成長に適しているところから、かつては格好な農地として盛んに利用されました。しかし、都市部における農業人口の減少により、最近ではゴルフ場や公園・運動場などに転用されることが多くなりました。

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