拝見 重厚な黒漆喰の固まり 川越蔵造り資料館

 重厚な黒漆喰の固まり 川越蔵造り資料館
 JR埼京線川越駅バス8分 2009年5月10日(日)拝見
 埼玉県川越市幸町7-9
 明治26年建築
 入館料100円

 

《 黒漆喰仕上げの店蔵は見るからに重厚な雰囲気です 09.5.10撮影 》

 明治26年の川越大火直後、類焼を免れた建物や東京の商家を参考に、煙草卸商を営んでいた小山文造が建てました。最盛期には100軒以上の蔵造りの建物が街中にひしめき、町並みを形成していました。
 


《 左が黒漆喰 石灰に灰墨、海草糊やスサを混ぜペースト状にしたものです 》

 川越商人は江戸時代以来、新河岸川の舟運などによる江戸との商いで富の蓄積があり、復興のための財力は十分にありました。同じ惨事を繰り返さないよう、建物そのものを防火建築にしました。



《 漆喰の歴史はとても古く世界中で使われてきた ピラミッドの壁が起源 》

 焼け残った建物が伝統的な工法による蔵造りであったことに着目し、商人たちは競って蔵造り建築を建てました。東京日本橋には明治10年代に既に蔵造り建物による町並みが形成されていたこともあり、江戸の商人に対する羨望や憧憬もあったのでしょう。



《 箱棟の両端に位置する鬼瓦 激しい形相こそ威厳と力の表れです 》

 この頃、東京では既に耐火建築として、レンガ造りや石積みの近代的な建物が造られていたが、川越商人たちは伝統的な蔵造りを選択しました。しかし、伝統工法に固執するわけでなく、レンガや大谷石、御影石などの新しい建築資材も柔軟に取り入れました。



《 煙草卸商を営んでいた小山家が扱った煙草道具やお茶道具の展示します 》

 蔵造りとは、土蔵と同じ構造で建てられた住屋または店舗のことです。塗り家の壁厚5~10cmに対して20~25cmの厚さを持つ。土蔵が相当な大火の後にも焼け残るため、倉庫以外でも大切な建物は蔵造りとするようになりました。



《 腕用消火ポンプ 火災の際にこれを運んでいき手動で放水します 》

 蔵造りは、①店蔵+袖蔵、②店蔵、③塗家、④袖蔵に分けられ川越の旧市街地にはこうした建物が点在しています。



《 川越大火を示す絵図 一瞬にしてすべてを奪う最大の脅威でした 》

 川越は北関東の穀物、物産を集め、新河岸川の舟運で江戸へ運んだ。大消費都市の江戸へ水路でつながる中継地だったということができる。その繁昌の地の目抜き通りにできたのが、家全体を太い柱と梁で組み立てて、黒くて厚い漆喰で塗り立てた蔵造りの商家にほかならない。



《 蔵造りを示す木模型 左が防火戸で右が蔵を示します 》

 これら蔵造りが圧倒的に増えたのは明治26年の大火がきっかけであった。川越の旧城下町部分の街並みを構成する建物は、大きく4つの時代に分けられます。まず大火以前、それから大火以降の大正年間始めのころまで、このふたつの時期は町屋建物が一般であり、木部を露出した焼き家と蔵のものがあった。



《 漆喰は気候が変化する日本にふさわしい 装飾性が出て日本の腕の見せ所です 》

 次に西洋的要素の導入が盛んとなった大正年間から戦前にかけて、そして多種多様な建物の建てられた戦後です。



《 商談部屋 狭く裏階段があるなど独特の工夫があります 》

 蔵造りの起源は江戸時代江戸中期であり、江戸の問屋からその商圏である関東一円、甲信越、東北地方へと広まりました。



《 商談部屋は2階奥 内密性と装飾性がありやはり密談の雰囲気です 》

 < 評価60クラス >
 漆喰の蔵は防火性からよく用いられ、黒漆喰は灰墨を混ぜたもので重厚さがあります。灰墨は湿気やカビ対策でもあるのでしょう。ボランティアガイドさんが丁寧に説明してくれました。意外なのは明治26年の川越大火後の建築のため洋風建物との選択の余地があった点です。蔵造り一帯が洋式のレンガ造りの建物になっていたら横浜や神戸のような美しい町並みになったのでしょうか。それとも北海道のようなレンガの倉庫群だろうか。当時の商家群の隆盛から、日本の高度な漆喰技術を生かした独特の擬洋風のレンガ建物であれば是非見たかったと思います。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 3

なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ナイス

この記事へのコメント


この記事へのトラックバック