日本政治 聖徳太子に見る冒険的外交政策

 聖徳太子に見る冒険的外交政策
1 緒言 推古天皇と聖徳太子
 日本は2世紀以降は、血縁を中心とする氏族の発達した形態により国家体系を作りつつあった。優勢な氏族が各地に勢力圏を築き、そのひとつが邪馬台国であり、国家として氏族を連合した大和朝廷であった。国家の統一はほぼ5世紀頃である。
 5世紀において大王(当時の天皇の呼び名)の地位は確立されたが、6世紀になるとやや曲折する。その理由は、①継承権のない継体天皇(けいたいてんのう)が皇位をついだこと、②軍事的地位が武将にとって替わられたこと、③南朝鮮での任那府(みなまふ)の破綻などである。推古天皇はそのような時、第33代の天皇として593年に即位した。


《 1万円札にも同様に描かれたが聖徳太子本人かは定かではないです 》

 推古天皇は崇峻天皇が蘇我馬子と争いを起こし、暗殺された後を継いで誕生した。豊御食炊屋姫(とよみけかしぎやひめ)、欽明天皇の第三皇女で女帝である。
 女帝が初めて即位した理由はいくつか考えられる。男子が即位すると権力が高まりつつあった蘇我氏と争いが生じることや皇室の伝統として神意的な政治を図るのに好都合であったことなどがある。
 事実、推古天皇は神事儀礼に多く当たり呪術的威力を発揮したようである。反面、推古朝の実際の政治を動かす人が必要となり、それが朝廷外では蘇我馬子であり朝廷内では聖徳太子であった。推古天皇は即位の翌年、甥の聖徳太子を皇太子とし、国政の執行にあたらせた。推古天皇も聖徳太子も蘇我氏と濃い血縁関係にあった。蘇我氏には政策実行力があり、太子には学識があったといえる。

2 聖徳太子の外交政策
(1)隋外交の新しい展開
 推古朝の政治の特徴に外交政策がある。当初は前代と同様に軍事行動に終始していたが、新たに中国へ使節を派遣するという積極策が加わった。遣隋使は推古8年と15年に相次いで送られた。「日本書記」にはただ一行、「大礼小野臣妹子を大唐(もろこし)に遣わす、鞍作福利(くらつくりふくり)を以て通事となす」とある。聖徳太子の事業のうち、「17条憲法」や「三経義硫」が、文献の上で疑問があるのに比べ、隋との外交については「日本書紀」と「隋書」の双方に対応する記述があり、太子の政策を知る上で好適な史実となる。

(2)自主外交の政策とその中身
 遣隋使の第二次派遣の国書には「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」と書かれており、同第3次派遣の国書には「東天皇、敬みて西皇帝に自す」とある。これらは聖徳太子の起草文であろう。とすれば、隋に対し従来の冊封・朝貢、つまり王侯として帝王に服属し、その朝廷に貢ぎを献上するという地位を棄て、対等の隣国関係を宣言したのである。
第2次派遣では小野妹子が遣使となったが、「隋書」によると妹子は「聞く海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝みせしめ、かねて沙門数十人、来たりて仏法を学ぶ」と述べたという。隋側を不当に刺激しまいとする配慮が感じられる。
 しかしながら、この国書の対等な「自主外交」は当然に隋側を刺激した。隋の煬帝(ようだい)は「蛮意の書、無礼なるものあり、またもって聞きする勿れ」と鴻臚卿(こうろうけい)に命じたという。かつて倭王武は中国の栄から臣下に属すると封じられてきたし、高句麗・百済・新羅は隋の冊封体制の中に入っていた。そんなとき日本だけが朝貢国の関係を拒否したのである。
中国の思想によると、外国の地は、中国皇帝の臣下に属する外臣の国と、それ以外の不臣の外域とに分けられる。そして、不臣の外域は法も礼も通用しない未開の国である。したがって、もし外臣の王が中国皇帝と対等の称号を使用すれば、それは謀反であって討伐の必要が生ずる。しかし、不臣の外域の王ならば、それは蛮夷の行為であってとがめ立てに値しないものとされる。よって、日本は討伐の対象はまぬがれたものの、この時の外交により、外臣に近づきつつあった地位を捨て、国際的地位を失うこととなる。
しかし、中国側は対外的には日本を不臣の外域と認めながらも日本に対して答礼の使を派遣した。中国側は朝貢関係に固執していたし、日本も支障ない範囲内でこれに順応していたからである。

(3)はなやかな隋使の歓迎と聖徳太子の冒険的政策
上記のような外交により、日本が国際的地位を低める結果となることは、学識深い太子は当然予期していたと思われる。その無謀とも思える外交の理由は、外交を内政に利用しようとの政策があったようだ。形式だけでも随と対等外交を行えば、朝廷の権威は上昇するとみたのである。
 小野妹子は遣隋の翌年の16年4月に帰国したが、この時有名な隋使の背世清(はいせいせい)ら12人が来日した。難波にわざわざ迎賓館を新設し、満艦飾の船30隻ではなやかに歓迎した。また、難波から飛鳥京への隋使の一行は金銀の鞍金具で華やかに飾られ、大和の諸豪族や農民を大いに圧倒したという。それは百済や新羅の使者ではなく、まさに「隋帝国」の使者として宣伝効果は十分であった。おそらく太子はそれを計算して歓迎行事を組んだと思われる。
 背世清ら12人の隋使は16年9月に帰国するが、この間半年は国内政治に十分利用された。示威と宣伝の効果は太子の予想どおりあがった。そしてここで小野妹子はふたたび遣隋大使として、小使の吉使の吉士雄成、通事の鞍咋福利をともなって渡航する。
 この3人は外交の練達であるが、加えて8人の留学生・留学僧が送り込まれる。この8人の新鋭の知識人は、倭漢直副因(やまとのあやのあたいふくいん)、高向漢人玄理(たかむこのあやひとげんり)・新漢人日文(いまのあやひとにちもん)らですべて漢人つまり帰化人であり、彼らこそ数十年ののち、大化改新の立役者となる人物である。ひとたび打開された新外交路線にのって、着々と文化の輸入が進んだといえる。

(4)明確かつ巧妙な聖徳太子の外交戦略
 このように事件の経過をたどると、太子が隋と通交する上で、あらかじめ周到に計画し準備していたことが分かる。2回の遣使の構成員を慎重に配慮し、質的に違え、新鋭の帰化人を大胆に登用している。
 また、隋使を迎えるに当たっては十分な歓迎準備を整えるとともに、演出効果を考え、隋との直接通交の威力を国内の政治に利用したのである。そのうえ、遣隋使の派遣時期そのものが実は東アジアの国際情勢をよく読んだ上での選択とも受け取れるのである。
 隋が中国を統一したのは、589年である。そして、勢力強大となった隋は朝鮮三国の対立に乗じて、598年に高句麗遠征に出るが失敗する。「隋書」によれば、日本の初めての遣隋使は600年という。事実とすれば、隋完敗直後であり、再軍備中の時である。このあと、高句麗は反抗に出て、607年には百済の辺境地方を、608年には新羅の地方を攻め、隋の侵攻に備える。一方、隋も煬帝は612年に第2回目の高句麗侵入を開始するが、再び敗れ、結局618年に滅びたのである。
 こうみると、遣隋使の派遣4回はいずれも隋と高句麗の激変のさなかに当たっていることがわかる。煬帝とすれば、高句麗を征するにはその背後にある百済を、さらには支援する日本を味方につけたかったに違いない。高句麗を南から牽制することが必要であり、少なくとも日本を敵に回せば不利になった。一方、高句麗にとっても日本と事を構えないことが肝要であった。南からの、特に新羅の脅威には悩まされていたからである。だから高句麗王は618年に、隋の煬帝の軍30万を破ったことを大和朝廷に告げ、俘虜(ふりょ)や鼓吹(つづみふえ)など戦利品を贈っている。1つの示威行為ともいえる。

3 結語 聖徳太子の聡明な戦略
 聖徳太子はこのように国際関係の動向をつかみ、遣使の時期を正確に計算して、外交政策を展開していった。そして、一見して冒険とも思える「自主外交」を進め、優秀な帰化人を登用しながら中国文化の輸入に努めた。
 逆に冒険的な外交によって、地方豪族に対する朝廷の権威を取り戻し、徐々に太子の考える国家組織へと強化する方向に導いたのである。新外交政策がみごと成功したのは太子が聡明であったことが大きいが、それだけの時代の必然性があったからとも言えるだろう。

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レイバン ウェイファーラー
Excerpt: 日本政治 聖徳太子に見る冒険的外交政策 環境カウンセラー【現代研究ブログ】/ウェブリブログ
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プラダ トート
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