荒川ストーリー3 源流から河口まで(下)

 源流奥秩父から河口東京湾まで(下
 東京を始め関東平野の開発は、氾濫・乱流を繰り返す川をいかに治め、川の水を利用するかにかかっていた。これから、流路に沿って荒川の源流・奥秩父から河口・東京湾までを概説(下)する。

11 武蔵水路
 武蔵水路は、利根川と荒川を結ぶ行田市須加から鴻巣市糠田(ぬかた)に至る北から南への直線的な水路。利根川から荒川へ水を導くための水路として開削された。利根大堰から取水している。昭和39年の異常渇水をうけて造られた。この水は30㎞下流の秋ケ瀬取水堰で堰き止められ、大久保浄水場(埼玉県)と朝霞浄水場(東京都)へ送られる。ここより下流を流れる水は、大部分が利根川の水であるといえる。


《 荒川メモリアル 水資料館を造って巨費の説明をします 09.3.12撮影 》

12 六堰(ろくせき)
 旧川本町と旧花園町(ともに現深谷市)との間にある六堰頭首工。江戸時代の初めにつくられた6つの堰をひとつにしたので六堰という。ここは扇状地のちょうど扇の要の部分にあたる。堤防がない自然の状態では、川はここを中心に放射線状に広がる。そのため扇型の地形ができるのだが、用水はその旧河道を利用してつくられている。この場所で水をとれば、昔の川の道を利用して、扇状地全域に効率よく水を供給できるというわけである。
 一方、扇状地はゆるやかなため川が左右に暴れる場所。「荒川」という名前はこの扇状地の部分の呼び名からきているようである。川の流れが安定しないために、6つの用水では常に水争いが絶えなかった。そこで昭和14年(1939)になって、6つの用水の取水堰を1つにあわせて六堰がつくられた。埼玉県で一番の灌漑面積を誇る。
 現在は大きく立派な堰につくり替えられている。荒川沿いの堤防もここから下流につくられており、上流側には堤防はない。



《 川では水質が改善されて漁獲量が減っている報告があります 》

13 熊谷
 熊谷は、県北部の中心都市である。荒川はちょうど市街地の南側を流れる。熊谷は扇状地の末端にあたるため、豊富な湧水がある。そのため、古くから発展していた。熊谷市内でちょうど荒川北側を流れる細い川が元荒川である。その名のとおり、江戸時代のはじめ(1629年)までは、こちらが荒川の本流であった。荒川はこの場所で締め切られ、入間川水系の和田吉野川へつなげられた。以来、元荒川は湧水池を水源としていたが、昭和30年代の高度成長期に地下水を大量に汲み上げたため、急激に湧水が枯れてしまった。そのため、埼玉県旧水産試験場が汲み上げた地下水が現在の水源となっている。

14 日本一の河川敷
 吉見町大和田地内と鴻巣市滝馬室地内を結ぶ荒川のあたりは日本で一番広い河川敷になっている。これは洪水時に一度に水が流れないようにするためで、一種の遊水地の役割を果たしている。川に向かって直角に飛び出している堤防は横堤(よこてい)といって、河川敷へ溢れ出た水を滞留させる働きをしている。荒川には全部で26の横堤がつくられている。

15 大囲堤(おおがこいづつみ)
 かつて、堤防は川に沿って連続的に築かれたものではなく、集落や田畑を守るために部分的につくられていた。とくに吉見町、川島町の辺りは、荒川が付け替えられて以来、度重なる洪水の被害に悩まされてきたため、大囲堤といって村全体を囲む堤防を築いて生活を守っていた。なでも川島の大囲堤は広大で、現在の川島町をほぼ全域取り囲んでいる。



《 川は飲用、工業用、農業や漁業など人々の実用に生かされます 》

16 人工河川地域の荒川と人々の暮らし
 源流地域から山間部を流れてきた荒川は、秩父盆地を経て、寄居町から関東平野に流れ出し、扇状地域をぬけた後、低地へ流れ出る。熊谷市久下から、広くさいたま市秋ケ瀬までの区間を、自然や人々の生活の特徴からまとまった地域としてとらえ、人工河川域と呼ぶ。江戸時代の初め、荒川は人工的に元荒川筋から、和田吉野川(入間川水系)へつながる現在の流路に固定された。それによって荒川低地はますます洪水の被害を受けるようになり、人々は大囲堤や水塚(みずか)を築き、少しでも被害を軽減しようとした。一方では流量が増加したために舟の往来が容易になり、舟運が盛んとなった。荒川の沿岸にはいくつもの河岸場がつくられ、鉄道にその役割を譲るまで、物資運搬の基地として栄えた。

17 背割堤・・・増水時の逆流を防ぐ
 荒川水系で一番大きな支流は入間川(いるまがわ)である。飯能市、狭山市を流れ、川越とさいたま市境付近で荒川と合流する。入間川と荒川が合流する部分に背割堤(せわりてい)といわれる長い堤防がある。秩父山地に雨が降ると、入間川の方が、荒川よりもはやく増水するため、荒川側へ水が逆流することがよくあった。そのため境に細長い堤防を築いて水の逆流を防止している。

18 都市河川地域の人々の暮らし
 源流地域から山間部を流れてきた荒川は、秩父盆地を経て、寄居町から関東平野に流れ出し、扇状地域をぬけた後、低地へ流れ出る。さいたま市秋ケ瀬から広く河口(東京都江東区、江戸川区)までの区間を、都市河川地域と呼んでいます。その昔、徳川将軍家のお膝元だった江戸も、度重なる水害に悩まされた。やがて明治に入り、近代日本の首都となった東京も水害は悩みの種であった。特に明治43年の大洪水は、下流域一帯に甚大な被害をもたらした。これを契機に、蛇行した荒川(現隅田川)から、分岐させた人工河川を開削することとなり、昭和5年に完成した。これが荒川放水路とよばれる現在の荒川。大量の水を迅速に流れる放水路の完成により洪水は減り、都市河川域は大いに発展した。



《 人の五感に川の流れが生きる 海そして空の間を水循環します 》

19 荒川第一調節池
 さいたま市南区から戸田市にかけてある調節池は、荒川第一調節池といって、平成8年に完成した、洪水を一時的に貯留するための施設である。湖の部分は彩湖という。上流部分は、ふだんは秋ケ瀬公園として利用されているが、荒川が増水したときには越流堤(えつりゅうてい)といわれる、周囲より少し低くなった堤防のところから、公園側へ水が入るようになっている。平成11年の増水時にはこの荒川第一調節池一面に水がたまり、洪水抑制の効果を発揮した。荒川調整池北側のJR武蔵野線付近は国の天然記念物田島ケ原の桜草自生地になっている。
 秋ケ瀬橋すぐ上流の右岸側に秋ケ瀬取水堰がある。ここから水を取って朝霞浄水場へ送り、東京都民の飲み水としている。また少し上流の建物は大久保浄水場で、埼玉県南部の人々の飲み水を供給している。

20 岩淵水門
 北区の新荒川大橋下流にある水門が岩淵水門。ここから川が2筋に分かれて、直線的な方が荒川、蛇行している方が隅田川。明治43年の大規模な水害を契機として約20年の歳月をかけてつくられた人工河川である。かつては荒川放水路と呼ばれていたが、昭和40年に、荒川本流となった。

21 荒川河口・東京湾
 最後にとうとう東京湾にやってきた。荒川河口橋(あらかわかこうきょう)の下流で荒川は東京湾に注ぐ。その上流に4kmに以前は荒川河口があった。埋め立てが進んだため、昭和60年に河口が4km延長された。荒川河口の向こう岸が葛西臨海公園。起点である甲武信岳から始まった荒川の旅は、173kmの東京湾で終わります。

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