法学 現代に生きる近代市民国家の形成における社会契約説の役割

 現代に生きる近代市民国家の形成における社会契約説の役割

1 社会契約の思想
(1) 契約説の起源
 国家の起源あるいは形成に関する学説のうち、主要なものは①神意説、②契約説、③実力説、④歴史的進化説であるが、契約説は神意説と並んで非常に古くからある思想である。
契約説は普通、社会契約説(Theory of Social Contract)とも呼ばれ、国家は神によって創設されたとする神意説と対照的な思想として生まれた。古代ギリシャの思想や旧約聖書に一部その記述が見られ、契約説の形式が整い出したのはローマ時代以降であり、チュートン人(古代ゲルマン民族の一派で、現在のドイツ、オランダ、スカンジナビアなどの北欧民族)の政治思想と結合して社会契約説が生じたと見ることができる。そして、中世の封建的制度の相互契約観念の発達によって、私法上の契約の観念が公法上に波及したものと考えられます。

(2) 契約説の発達
 国家の存亡を思考する上で、社会契約説がもっとも議論されたのは17~18世紀のイギリスやフランスである。この時代の自然法学者はいずれも契約説から出発しており、有名な論者にJ・ロック(イギリスの哲学者、社会契約論者、ピューリタン信仰者)、J・ルソー(フランスの思想家、エッセイスト)、T・ホッブス(イングランドの政治哲学者。近代政治思想を基礎付けた)がいる。
  契約説には諸説あるが、共通するのは、国家は神意説のような神によって作られた超越的な存在ではなく、人間が自発的な意志によって集まり、協議し、契約により国家生活を共にし、国家権力を作りあげたというものである。
契約説の論者のうち、近代の民主主義に最も影響したイギリスのジョン・ロックの説の着想を簡単に示す。
 ロックの思想体系は、その著書「人間悟性論」 及び「市民政府二論」に示されている。それによれば、人間は本来理性的な動物であって『自然の状態』が快適であり、理性の支配する世界であった。しかし、この理性的な『自然の状態』にも不便な事柄があり、
(1)法律がないため、人間同士に自然の権利について争議が起こった場合、裁定する手順がないこと。
(2)争議を裁定する公平で権威のある審判がいないこと。
(3)審判官が裁定を下しても、その裁定を執行する保障制度がないこと。
を指摘している。このため、『自然の状態』は市民の自由にとって理想的ではあるが、不便を補うため、契約を結び国家を設立することに合意したと考えた。 
ここで注意を要するのは、ロックを始めとする契約論者は、歴史の事実として契約があったと主張している訳ではない。国家を形成する根拠や政治の権限を市民の合意としての契約に説明を求めたに過ぎない。歴史学的に見ても、契約という高度に発達した法律概念が、国家の創設期起源であると規定するのは困難である。
 しかし、17~18世紀の議論を通じ、契約説の近代民主主義に与えた影響は大きい。影響を受けた点では、日本の明治初期の自由民権思想も同様である。社会契約説は前近代的な封建制度を越えて、市民を中心とする近代国家を形成する上で、重要な功績をもたらした思想と言える。

2 民主主義と社会契約説
(1) 憲法の制定
  近代市民国家は近代民主主義の言葉で置き換えられるように、人民が権力を有し権力を自ら行使する立場を言う。すなわち、基本的人権・平等権あるいは多数決原理・法治主義などが主たる属性である。契約説は具体的には憲法の制定つまり立憲国家の誕生を促進したと言える。立憲国家とは、近代国家の初期段階である専制国家による「人の支配」から「法の支配」をもってしようとする合理主義・法治主義に基づく国家である。「法の支配」とは法律を国民の代表によって作る民主支配である。専制支配は「すべては国民のために、一部の人の支配で行われる」のに対し、民主支配は「人民の、人民による、人民のための政治」の中の人民による の部分が特色といえる。
 専制国家は近代国家の第1段階として大きな意義を有したが、いつまでも長続きはしなかった。文芸復興期にはじまり、宗教改革を経て次第に盛り上がった自由への欲求には抗しきれなかった。近代市民社会の誕生の主体は第三階級(市民階級=ブルジョアジー)であるが、彼らは中世末期に発展した都市を背景に発展した商人階級である。専制国家自体も彼らの支援を受けて設立したが、この商人階級がなお勢力を伸ばすに連れて、制度からの開放を要求した。彼らの信条には自由主義と平等主義があった。
 立憲制度は、イギリスにおいていち早く取り入れられたと見てよい。 それは権利章典である。近世に入り、スチュアート王朝時代のジェームズ2世の独裁的権力に反発し、退位を宣告した光栄革命(Glorious Revolution)で、国会はまず権利章典を起草し、新たなウィリアム国王の承認を求めたのである。そして、この時からイギリスの立憲制度は確立した。
 しかしながら、イギリスのこの目覚ましい民主化も、その後徐々に世界に立憲制度が波及していくことと、直接には結び付かなかった。イギリスにおいては、革命の必要上行われたのであり、確固たる理論があったわけではない。立憲制度が波及する契機となったのは、むしろその後のアメリカの独立とフランス革命であった。
1776年のアメリカの独立は、新植民地の下で自由と平等を基調とする高遠な精神に基づいている。その根幹をなすのが、契約説の影響を強く受けたジェファーソンの「独立宣言」である。この中には、人間には生まれながらにして、生命・自由・幸福追求の権利があること、そして互いに平等であることが明記されている。
 一方、フランス革命の与えた影響も大きい。1789年の「人権宣言」では基本的人権と政府の役割を厳粛に述べている。それは自国のことのみでなく、人類共通の権利とされている。この原動力をなしたのが、契約論者のモンテスキューとルソーであった。特に、ヨーロッパ全体に波及した立憲制度は、フランス革命の影響が非常に強いと言える。

(2) 国民主権について
 フランス革命以降、国民主権論が定着したといってよい。フランス革命の思想の背景は、主権論においてはルソーの社会契約論である。ルソーの主権論は、国民個人が自由を一層確保するために国家の創設を約束したという考えであり、個人主義論に近いものであった。結局、ルソーの主権論では国民個人が直接に主権を行使することとなり、小さい国家を除いては不可能である。そこで、1848年のフランス憲法では「主権はフランス市民の総体の中に存在する」とし、代議制を基本とする国民主権の考えを反映している。

(3) 基本的人権について
 絶対主義国家の専制権力に対して、近代市民が要求したものは、人間が生まれながらにして有するとする天賦の自由と権利であった。この自然権を根拠付け、近代革命の有力な思想的根拠としたは、ロックからルソーに至る契約説である。天賦の自由と平等の権利は、国家や憲法以前のものであるから、憲法の憲法とも言える性格を持つものとされ、憲法に規定されるとともに、憲法改正によっても不可侵の権利とされた。これらの自由権や権利は、具体的には信教の自由、所有権の絶対、居住・職業選択、集会・結社、表現、人身の自由など、自由権を中心とした基本権である。  
 基本権の保障によって、権力行使の限界を画することを目的とする点で、「国からの自由」( Freheit Staat )を中心とし、近代市民国家の基礎は、自由権的基本権の性格を持つものとなった。

(4) 権力分立
 基本権の保障は、権力発動の限界を画するものであるが、権力自体の存在を否定するものではなかった。しかし権力の行使は、つねに濫用の危険があるとの認識から、権力の機能に応じて、これを分立させこれら相互の抑制と均衡( Checks and Balances )によって、現実に基本権の保障を確保しようとするのが、権力分立の原理である。この原理に理論的根拠を与えたのがロックであり、体系化したのがモンテスキューである。
 しかし、この原理が諸国の憲法に具体化される時は、その歴史的、社会的背景により異なる形態をとった。例えば、厳格な権力分立制をとるアメリカ、立法府の信任の上にのみ行政権が存立しうるとするイギリスの議院内閣制がそれである。また、地方分権主義は、国民主権の原理にもかかわらず、中央権力が地方の実情から遊離して行使されるという歴史的現実から、可能な限り中央権力の支配を限界付け、地方団体の責任と負担、および地方住民の意思に基づいて政治が行われるべきものとする考え方である。地方分権はこのように権力分立原理論の具体的表現でもあった。

 現代社会において、このように社会契約説が再び見直される背景には、ひとつには高齢化社会の到来がある。高齢者を社会が負担するためには、国家による富の再配分が必要となる。負担を強いられる国民の不満を低減するには、国家が国民総体による信託を受け再配分を行使するのであり、経済的負担に差が生ずるのは国民としての契約によって生ずるからやむを得ないと説得されることになります。

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