私の気になる人・夭折の天才歌人・寺山修司

 昭和10年12月10日に寺山八郎、はつの長男として出生。9歳の時、青森空襲で焼け出され、父親の実家がある三沢市で小学校4年生から中学校1年生まで過ごした。父親が戦死、母親は九州へ働きに出るようになり、そのため、青森市の母親の親戚宅である映画館歌舞伎座で生活し、青森高校へ進学する。
画像 学生時代は短歌や俳句などに没頭する。早稲田大学教育学部国文学科へ入学し、18歳の時、『チェホフ祭』を発表し、第2回「短歌研究」新人賞を受賞。腎臓の難病ネフローゼとの3年半にわたる闘病生活を経て、ラジオドラマ『中村一郎』を発表し、民放祭会長賞を受賞した後、シナリオライターとして歩み始める。ラジオドラマから、演劇、映画、テレビドラマへと活動範囲を広げていき、31歳の時に、横尾忠則、九條映子らと演劇実験室「天井棧敷」を設立。専用の劇場を備えた「天井棧敷館」を所有し、47歳で亡くなるまでの17年間、2千人近い団員が入れ替わり立ち代わり参加した。国内だけでなく海外での公演活動も多く、特にヨーロッパでは前衛芸術への評価が高く、毎年のように招待されて公演を行った。
 寺山修司は、いつも斬新な企画にあふれ、病身にもかかわらず演劇や映画の現場に参加し、死の直前まで執筆活動を続けた。詩や短歌、俳句、映画、演劇、ラジオドラマ、文学から競馬やボクシングにいたるまでの幅広い評論、小説、作詞、エッセイなど多領域にわたる前線で活躍していたため、「職業は、寺山修司です」と名乗っていた。

著作
書を捨てよ町へ出よう(1971年)
田園に死す(1974年)
ボクサー(1977年)
草迷宮(1978年)
上海異人娼館/チャイナ・ドール(1980年)
さらば箱舟(1982年、公開1984年)

寺山修司インタビュー
 70年代ってのは、劇場じゃないもの、たとえば、テント公演なんだけども、売り物ではないものが売れてしまったという見方ができると思うんですが、そのへんからひとつ。
寺山 俺の問題として考えた時、劇場というものは、本当に場所のことなのかどうか、劇場というのはある種の「時間体」のことじやないか。だから要するに、どんな場所だろうと、限られた時間だったら劇場化できるという考え方があって、団地アパートであろうと道路であろうと、マンホールの下であろうと、どういう場所でも劇場にならないことばないけれども、劇場として、場所として、あらかじめ造られたものの中に、劇場的なものを持ちこむということは凄く難しい、という考え方があった。
 大学闘争が派手にあった時期でもあるし、大学というものも場所ではなく、時間であると考えていった場合、もっと抽象的に考えれば、国家というもの自体が、場所とか土地とかいうものから切り離されて、「時間体」として考えていいんじゃないか。それは、俺なんか出発した時点で、土着的に、土地とか場所とかいうものとの関係でしか、文学というものは考えられないというのがあって、そういうものから一度総清算しようと思った段階で、土地離れというものは、そのまま場所離れであった。だから、劇場そのものを場所として解体して時間に置きかえるために、さしあたっては、劇場の悪口をいろいろ言おう。学生が大学に口を入れるのと同じような形だった。それは、始源的な意味で、劇場というのは場所ではなかったのに、いつの間にか、近代が劇場を場所というものの中に封じこめてしまった、ことに対する疑いだった。
 いま、70年代の後半から80年代にかけて、それが多少変ってきて、時間がこう「垂れ流し」みたいに流れちゃったんで、時間と場所との関係をもういっぺん問い直す、という帰納法が必要だということを感じないでもない。俺は、市街とか道路とかに興味を持った、それは、道路でショーを演じるんじゃなくて、道路と劇場的な約束事とがどこかで通底していってることに、興味があったわけよ。
  ま、アレで言えばね、演劇団が黒テントの紀伊国屋が間違ってるって闘いは、「時間の側から場所に対する、一つの面白い挑発だった」という感じがするね。つんぼさじきも、山崎は俺に対していつも批判的だったけどもね、俺は、にもかかわらず、うち(天井桟敷館)で定期的にやってるものでは一番興味を持つてたのはさ、少しずつあの地下の劇場に溢れていくものがあるわけよ。それは、あの外の歩道橋から始まったり、喫茶店の前から始まったりして、日常的な市街と造られた地下の、いかにもアングラ演劇とかいうふうな概念とが、奇妙に、真心的につながっていって、それがとてつもなく拡がっていく可能性みたいなものがあって、それは山崎が初めから方法として持っていたと言うより、やっていくうちに当然、そうなっていかざるをえなくなったということのエネルギーを感じた、そのへんが面白かったのよ。 それがいま、時間が垂れ流しになってくると、それに対する反動でまたあちこちに西武劇場とか、博品館劇場とかいうものができてくるわけでしょ。それは多少、眉唾だという気がしないでもない。器はあるんだけど、なかに入れるものが殆どないっていう状態だと、ぼくは捉えてるわけですよ。浅草という街は、浅草寺から仲見世までひっくるめて劇場であり、かつてのぼくらのカジノ・フォーリイ=浅草木馬館という形で『浅草カルメン』という芝居をやって、ある種の「人気若手劇団のピーク」ってやつを迎えたんだけど、それから、あえて、木馬館を捨てて、霞ケ関のアメリカ大使館前の権力の中枢=自転車会館ホールに向かっていった、そこで、最終的に残ったものはやっばり「役者の問題」なんですね。ぼくの性格がそうなんでしょうけど、結局は高田馬場の小さい群六舎スタジオという稽古場兼拠点劇場という「アングラの原点」=再びの陣地戦に戻る、という回路がぼくら「演劇団の9年間」だったんですよ。

 寺山さんは、いま晴海の貿易センターなんかでやってるわけなんだけど、海外での公演もひっくるめて寺山さんのなかで、「空間的なもの」はどうやって繋がってるんですか。 
寺山 俺は、東京で非常に評判の悪かった『邪宗門』という芝居をやったんだけど、あれをヨーロッパで持ち歩いていて、始まりはいつも観客をムリヤリに角材で挑発して、舞台にあげて、ムリヤリに衣裳を着せちゃって、で、その連中は帰ろうとするけれども客席に帰さない、と、それと、自分たちの芝居をやろうとしてる連中と、客にムリヤリに芝居をさせようとしているプロモートがいり混って、公演のたび、あちこち劇場のものが壊れたり、殴り合いがあったりするようなやっをずっとやってきた。それがあの頃、わりに自然だったということがあるのよね。
 そういうふうな延長のものが、そういう形で持続できなくなってきて、紀伊國屋ホールで『観客席』という芝居をやったんだけど、突然、客が椅子を奪いあったり、アジったり、幕が上ると何にもない、柏手して終るとまた幕が上ってなにもないことを、永遠に繰りかえしたりね。それから、場内アナウンスで「只今から―――を行います。非常の場合にはどうぞ勝手に逃げて下さい」、そういうアナウンスをさせたりね。そういうことをやって、劇場とかいうものに集まってくる観客というもの、今までは役者がスケープ・ゴートだったんだけど、「観客がスケープ・ゴートだ」という考え方に切りかえたり、ということがひとつあって、それは、ある意味では知的操作というものに、どんどん退行していっちゃうわけよ、そうやっていくとね。

 すると、寺山さんにとって、役者のイメージはどうなってるんですか?
寺山 俺は、役者というものが最終的にはなくなるんじゃないか、という感じがあるわけ。そのへんが、だから、流山児みたいに役者をやりながら演劇をやっている人間と、最終的には多少相入れないかも知れない。俺は役者というものは替りの人間だという気がしてならないのよね。それは、土方巽に典型的にみられるように、自分自身を供物として捧げるという形で、そこに対象化するものがなにか必要で、それをみてるとね、いつかは客同士がなにか始めるというふうになって、役者がなくとも演劇ができるようになる、客が殺伐とホントに犯罪をおこしたり、突然、知らない男女がナ二をやり始めたりというふうな、「一種の市街ブランキズムみたいなものが劇場のなかにそのまま持ちこまれていく」、というふうになってもいいんじゃないかというものがある。

 初め、寺山さんは土だと思う。それからコンクリートになっていった。
寺山 それがやっぱり本当なんだよね。
  ただ、コンクリートもめくれば土なんだけど、コンクリートの方が肉体に対してさ、非常に加虐的でしょ。土と肉体というのは、やっぱりどこかで融和するんだよね。 土方巽なんかと昔いっしょにやってた頃に、土方は最終的にはやっばり土で、あいつの子供はコメとムギっていうんだからね。(笑)あいつは陽の光があたっちゃダメだというんだけども、やっぱ、隠花植物的に土がないとダメなのね。それでいながら、陽が射さない方がいいわけよ。俺は、バラバラに干乾びてさ、「コンクリートのうえで肉体が水けを衷(うしな)っていく」という、そういう感じがあいつの体をみてるとするわけね。

 それは、寺山さんが映画的だからじゃないんですか。
寺山 いや、映画ってのはなるほど「甘い生活」だけど、表現としてダメだと思う。多少才能があると、映画は上手く出来ちゃうんですよ。芝居やって演出である程度仕事しているやつは、みんな映画の悪口をいうね。そりゃ流山児が、上海か浅草か知らんけどね、白いスーツか軍服きてやるんならいいと思うよ。(笑)だけど、客を騙し自分をだまし、という割り切りがないと(映画は)出来ないね。

 寺山さんは短歌からはじまって初期の台本はかなりコトバが重くみられてる。で、最近はコトバが極端にそがれていってると思うんですけど、劇のコトバについては?
寺山 コトバというのは、舞台の上でいう時にはさ、全部聞こえることを要求された場合にはさ、泣き声も叫び声もダメでね、あるニュートラルな発音でしか使えないわけよ。すると、あの高さであの広さにあう発声法で俺たちがコミュニケーションすることは何だろうか、猥談は言えないでしょ? そう考えていくと限られた感情しか伝えられないということがひとつある。それと、俺たちは普段こうやって喋ってる時には、三分の一くらい聞き洩してるわけよね、それでも意味が成り立っていくわけだから。外人と話してると殊更そう感じる、そんなに喋ってて半分はわかんないけど、用は足りたなって思う。そういうふうに、コトバつてのは半分以上はいらないことを喋ってるわけね。
  とさ、コトバを使うことによって身体を停めるよりは、身体を動かしてコトバと同じ効果を伝えるほうが絶対いいんじやないか。それから、俺はシュールレアリズムのものが子供の頃から好きだったんだけどね、夢のなかで本当にコトバを喋ってるかどうか、ということを考えるとさ、夢のなかで誰かがハッキリした発音でなにか喋ったのを聞いた記憶つてないのよ。それが一番具体的なロバート・ウィルソンの芝居なんか見てると、五分位のデキゴドを三時間位かけてじっくりやると、「コトバも解体して」ゆっくり喋らないと、コトバだけが等身大の速度で人間の動きだけが等身大から解放されていった時に、凄い矛盾になってくるわけでしょ。すると、コトバがバラバラに解体されないで、普通と同じ発声で、身体の動きをどんなに痙攣させたり伸び縮みさせたりしていっても、やっぱ、コトバにおかま掘られたりすることになっちゃうからね。コトバが普通のエロキューションじやなく喋れるか、そうじゃなかったら、喋らないで同じ効果を出すほうがいい。コトバってのは、ずっと喋ってきて、最後のひと言でそのことを否定したりする時にゃ凄く決まるけどさ、太宰治の最後の一行みたいに。そうじゃない限りは喋るやつがうっとりする程には、聞く方はうっとりしないんだよね。

 でも『奴婢訓』に較べて、『レミング』は喋りましたよね。(笑)
寺山 だから、あれは俺は反省してるんだよ。集団でやってるとさ、ホラ、役者ってやっぱり喋りたがるでしょ。俺は最初に台本つくって稽古するんじゃなくて、稽古しながら場面(シーン)々を作っていくやり方でね、最初ト書きだけでつくっちゃうわけ、プロットを。それで後は毎日稽古しながらやっていくわけよ。すると、『レミング』なんかやってると稽古やりながらやたら役者が喋るわけね。つまり、『奴婢訓』を一年やって、役者がそういうことに対するイライラがあって喋りたがるんだな、という思いがあってやってたのね。それがちょっと失敗なんだな。喋るとね、暴力的じゃなくなる。ヤーさん(ヤクザ)だってそうよ、あまり喋らないやつが一番恐いのよ。

 本当の暴力ってのは喋っていいんじゃないか、とぼくは思うんですけどね。
寺山 それはね、芝居の形もあるわね。演劇団も唐十郎(状況劇場)のところでもそうだけどさ、わりに視覚的にカツコよく見せてるけど、しかし、コトバを全部はずして見せるだけにしたら意外に暴力的じゃなくなる。それにさ、俺は五つ六つの頃からもの書いてたわけよ、自分で言うのもおかしいけどさ、十二、三才でもう短歌つくって新聞なんかに載ってたわけ。そうするとね、コトバは使えるって気がある、だから、コトバに逃げこめば楽だって感じがする。
 いま日本で芝居やってるやつてのは、大体、最後はコトバで勝負してくる。別役実にしたって唐十郎にしたって。それをコトバじゃなく勝負するところまでいくってのは、俺みたいに、コトバだとある程度までいけるけど、コトバじゃないところではしんどいというやつにとって、ある楽しみがあるわけよね。

 さて、競馬と演劇について。
寺山 競馬も演劇だという考え方なわけね。昔から言ってるんだけど、俺はボクシングが好きなんだけど、ボクシングを見てると、『ゴドーを待ちながら』と同じように切なーい気持と、気だるーい感じになるのね。十五ラウンド闘ってる試合と、ベケットの『ゴドーを待ちながら』を文学座の俳優が二人で演ってるのと、どっちが不条理かっていうと、遥かにボクシングの方が不条理だって感じがある。そうすると、ボクシングや競馬に勝たなかったら向こうの方が演劇だってことになるわけよ。ドラマツルギーというのはそういう意味で、ある偶然性を組織していって、それがある価値観をまったく裏返しちゃうというだけのダイナミズムを持つとしたら、それはやっばり競馬よりも賭博的な要素が強くてね。ボクシングよりも血生臭い、そういうのがないとダメね。流山児で言うならば、「アブドゥーラ・ザ・ブッチャーを上回る役者」が、悪源大義平がブッチャーよりも存在感を持つということが、絶対に要求されることでしょう。

 新しい劇団について。
寺山 新しい劇団というのは、結局、ストーリーを再現してるから、要するに作家の内面というのを信じて、それを複製するのに役者が一生懸命ソレになりきるわけだからね、そういう意味じゃ全然恐くないわけよ。作家がすみませんと書けば、すみませんという役者ってのはやっぱり問題だよ。(笑)
 いま迄の芝居の歴史ってのは、「興行の歴史」だったわけですよね。だから、興行ってのは客を何人いれるか、入場料を幾らとるかってことで容物(いれもの)を決めるわけでしょ。その容物ってのが劇場を時間じゃなくて、場所にして、その場所も容量というかキャパシティというか、ただの容物にどんどんなっていっちゃうということがあって、それが、その範囲で聞える声の高さでものを言って、観客の感受性の最大公約数のところで、自分のメッセージみたいなものを作家が一生懸命につくるという、そういう感じがあるから、だから、劇場のなかで何百人殺したって大学ひとつ潰れるわけじゃないんだよね、会社ひとつ壊われるわけじゃないんだよ。そういう意味じゃ「恐怖がまったく無い」ってことがある。

 70年の頃てのはさ、学生運動と芝居とが同じ高みでやってて、人の行ったり来たりがあった頃てのは多少芝居は恐がられてた。芝居だ芝居だと言っても、ホントは芝居がなに考えてんのか分らないって。いま、そういう意味では非常に安全だ、全裸がでたって別に警察はなにも言いにこないし、あの頃はちょっと変な感じでも、すぐ公安が来てたからな。

 最後に、天皇について
寺山 天皇というのは俳優だと思うのよ。劇場がスタンド・インとして役者を必要としている間、天皇ってのはまだ、いわゆる劇場としての国家てなふうなものが成立するっていう前提の上での、俳優としての天皇は、機能的には存在し得てるってことよね。それは、俺みたいに、劇場が場所として成立すべきじゃないという建前にたった時には、俳優と同じ構造をもってる天皇てのはまったく不必要な方向にむかっていくわけだよ。

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