環境問題の変遷

 環境問題の変遷
 1 黎明期・戦後初期の公害
 日本は第二次世界大戦の終結(1945年)を挟んで、産業構造は大きく転換することとなったが、終戦以前にも公害は存在した。「工場公害」は、戦前から工場監督官などの間には普通に用いられていた用語であり、化学工場、セメント工場、人絹工場、製紙工場及び発電所などによる被害がもたらされ、企業から見舞金などの補償金が支払われたが、抜本的な法整備はほとんどなかったといえる。

 公害が社会的な問題となったのは、戦後の復興期、朝鮮戦争による特需を経て鉱工業生産が回復し生産の規模が拡大してからであり、その意味で公害の黎明期といえる。

 1949年(昭和24年)8月、東京都は地方自治体として初めて「工場公害防止条例」を制定した。続いて、大阪府・神奈川県・福岡県・埼玉県でも公害防止条例を制定し、住民の公害苦情に対応しはじめた。当時、東京、大阪をはじめ川崎市、宇部市、戸畑市、八幡市などの工業都市においては、ばい煙問題が相当深刻であった。

 このころ昭和27年3月に、日本で初めての公害防止協定が島根県と山陽パルプ(株)江津工場及び大和紡績(株)益田工場との間で「公害の防止に関する覚書」として締結された。これが公害防止協定の先駆といえるが、廃水処理施設の完備と損害補償の方法を定めただけで、総合的な予防対策を定めた協定といえるものではなかった。


《 協定は企業が自らの方針や技術で地域に対して貢献できる点を打ち出す具体策 》


2 高度成長期前半の深刻な公害問題
 1955年(昭和30年)~1973年(昭和48年)の第一次オイルショックまでの高度成長期には、急激な経済発展の反面で産業公害が多発し、公害病患者が多数生み出された。昭和36年には四日市市でぜん息患者、昭和39年には新潟で有機水銀中毒被害、昭和43年には熊本水俣病、そして昭和45年には新宿牛込柳町交差点で鉛中毒患者発生など深刻な公害はこの時期に集中している。1960年代に本格化した高度成長政策は、大規模石油化学コンビナート建設と新幹線鉄道、空港及び高速道路の建設に象徴される工業開発・公共事業開発政策が基本であった。

 この政策のため、水質汚濁防止として昭和33年に「工場廃水等の規制に関する法律」が、大気汚染防止法として昭和37年に「ばい煙の排出規制等に関する法律」が制定された。

 しかし、熊本水俣病の原因が工場排水の有機水銀化合物であると解明された後に、新潟阿賀野川流域で第二の水俣病が発生し、続いて富山イタイイタイ病が発覚するにつれ、あまりに深刻な状況に、総合的な公害対策を要請する機運が強まり、昭和42年に対策の理念となる公害対策基本法が制定されるに至った。

 この時期の昭和39年に、横浜市が公害規制の手段として公害防止協定を全国に先駆けて締結した。横浜市と同市根岸湾臨海工業用埋立地に進出予定の電源開発(株)及び東京電力が締結したもので、科学的データを基に、具体的に申し入れた点で、画期的である。それによると、大気汚染・水質汚濁・騒音の防止、測定報告、立入検査、公開の原則などである。そこで、企業に公害防止措置を協定によって約束させる、このような手法を、「横浜方式」と名付けた。この方法は、以後全国に広まり、東京都や香川県、北九州市などで新規企業が立地する際に広く用いられることとなった。


3 高度成長期後半と公害対策
 昭和42年8月の公害対策基本法制定を受けて、昭和43年にばい煙規制法に代わる大気汚染防止法、騒音規制法が制定された。さらに、昭和44年には、環境基準として初めて大気の二酸化硫黄の基準が設定され、公害健康被害救済特別措置法も制定されて、公害病認定患者の医療救済だ講じられた。

 しかし、一方で政府は昭和44年4月に「新全国総合開発計画」を発表し、すでに産業公害が激化していた鹿島臨海コンビナートや倉敷・水島コンビナートに加え、全国に巨大産業基地を拡大する計画を打ち出した。

 昭和42年に新潟水俣病訴訟と四日市訴訟、昭和43年には富山イタイイタイ訴訟、昭和44年には熊本水俣病訴訟等と本格的な公害訴訟が提訴され、反公害の大きな世論を形成しつつあった。そ頂点が昭和45年であり。新宿・牛込柳町の自動車鉛中毒、田子の浦港のヘドロ公害、光化学スモッグ被害などである。

 そして、その昭和45年の第64回臨時国会を「公害国会」と位置づけ、公害関係6法制定及び「公害対策基本法」等14法律の制定改正を行うこととなった。一部改正は、公害対策基本法、大気汚染防止法、騒音規制法、道路交通法、下水道法、自然公園法、農薬取締法、毒物・劇物取締法である。新法は、水質汚濁防止法、海洋汚染防止法、農用地土壌汚染防止法、廃棄物処理法、公害防止事業費事業者負担法、公害犯罪処罰法である。この時に、各法の目的条項にあった「生活環境の保全と経済の健全な発展との調和」をうたったいわゆる「調和条項」が削除され、全国を規制対象とする規制強化と併せ、大きな前進を示した。公害防止協定はこの時期から、全国的な展開を見せ始め、2~3年の間に急速な締結数の伸びを示している。


4 現代の環境問題
 2度にわたるオイルショックを経て、かつての高度経済成長は不可能となり、現代は低成長社会あるいは循環型社会に向かいつつある。産業型公害は局所的にはあるものの、経済の停滞とともに沈静化した。

 深刻な状況が継続しているものは、自動車公害である。自動車に起因する大気汚染は半数以上が環境基準を超過したままであるし、自動車騒音も幹線道で達成されていない地域が多い。自動車公害は自動車単体規制と交通量制限及び道路構造対策といった総合的な対策が求められ、一方的な規制だけでなく、利用者側の意識の促進とともに対策を浸透させる手法が必要となってきた。

 1980年代後半から1992年6月のブラジルのリオで開かれた「地球サミット」(「環境と開発に関する国連会議」)を契機として、地球環境問題が一気に世界に加速された。地球温暖化や砂漠化の問題は政治的な「途上国と先進国との対立」まで巻き込み、複雑かつ長期的な対応を迫られている。

 わが国では、1992年の中央公害対策審議会・自然環境保全審議会は「環境基本法制のあり方について」との答申をとりまとめ、廃棄物などの不要物の増大、地球環境問題と並んで「都市・生活型公害」が強調されている。その中身は、都市部の自動車公害と生活雑排水問題が意図されている。これらをまとめるキーワードとして「地球規模で考え、足元から行動する」という「Think globally. Act locally.」が象徴的に使われだしたのもこの頃であった。

 こうしたことを背景に住民の意識自体も高まった。社会が豊になり安全になるにつれ、人は長生きしたい健康に生きたいと思う気持ちが強くなる。現代の医療産業の発展や健康食品市場の活性はその象徴である。このような豊かな時代には、交通事故や公害など被害者に過失がないのに健康を損なうような問題には大きな関心が払われる。それは当然であって、誰もが均一に豊かな生活を享受しているのに、自分だけがなぜこんな不利益を被るのか、運命のいたずらで済む問題ではない。日本では過去に大きな薬害や公害事件を防げなかった記憶があるためである。

 環境問題は、いまや哲学と同じようなテーマになったと考えられる。それは環境問題に対して、科学的な面や経済的な面から答えを出してそれで終わりという時代ではなく、人が生きている間、哲学のように常に考え、自分の行動に反映させながら生きていく存在になったとみることができるからである。

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